答志島紹介ムービー
御食国・答志島とは
答志島は、鳥羽港の北東約2.5kmに位置する、東西約6キロメートル、南北約1.5キロメートルの鳥羽市の離島です。面積約7平方キロメートルで、鳥羽湾および三重県内では最大の島であり、答志(とうし)、答志和具(とうしわぐ)、桃取(ももとり)の3集落があります。
答志島の名前の由来の一つに、冬至のころ伊勢神宮の方角から眺めると、その島から朝日が昇っているようにみえ、『冬至の島』と呼ばれていたものが、いつしか【答志島】と変化していったといわれています。
つまり、答志島は命を育む太陽神・天照大御神にもっとも早くあえる場所であり、天照大御神の光に照らされて、はるか昔の時代から大自然の恩恵を受けてきた場所。伊勢神宮に守られた、食のパワースポットと言えるのではないでしょうか。

答志島を囲む伊勢湾は、北側から木曽川三川をはじめ、鈴鹿川、出雲川、櫛田川、日本一きれいな川にも選ばれたこともある宮川の山水が流れ込み、南側からは熊野灘の豊かな黒潮が押し寄せ、日本古代から朝廷や伊勢神宮の神事の際に貢がれる神饌(しんせん)として用いられてきた栄養満点の魚介類が育まれる環境が作り出されています。
答志島の魚介類は神様のお墨付き。御食国(みけつくに)として、日本古来より朝廷や伊勢神宮に献上してきた日本一の魚介類が今現在でも島民によって守られ引き継がれています。

御食国(みけつくに)は、日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される国を指す言葉です。
律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられましたが、これとは別に贄の納付が定められていたと考えられています。『万葉集』にある郷土礼讃の歌に散見され、『延喜式』の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、志摩国・若狭国・淡路国などへの該当が推定されています。(「御食国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年4月30日 (月) 08:26 UTC)
木簡の内容をまとめた資料を確認しますと、志摩国への貢物の約半数は答志島(答志・和具)産の海水産物だったようです。

答志島の魅力
島全体が親戚づきあいのように暮らす答志島には漁業だけでなく、古き良き習慣や風習、昔ながらの景色が今でも数多く残っています。
- 家々の間を縫うような小さな路地
- 世古の由来は、世古は「迫」と同義で、両方から迫りあった細い道を意味したとか、セ・・・「狭い」、コ・・・「処」、すなわち「狭処」(せこ)が世古に転化したのではといわれています。
- 『さんで』とはサザエの事。
- 世古を進んだ行き止まりが、サザエの殻の先のようにくるっとまわっているのでこのような名前が付けられました。
- 家々の間を縫うような小さな路地
- 緑いっぱいに囲まれ、自然の音に誘われて少し山道を登っていくと・・・。
- 伊勢湾を一望できる小高い丘
- 知多半島や渥美半島だけでなく、天気の良い日には富士山まで見ることが出来ます。
- あちこちに書かれているマルハチマーク
- 島の護り神【八幡神社】で毎年1月に行われる八幡祭りの墨で書かれる魔除けのおまじない。
- 答志島は九鬼水軍の根拠地
- 九鬼嘉隆は戦国時代から安土桃山時代にかけて九鬼水軍を率いた水軍武将で、答志島で自刃した。
- 地元の人の手で建てられました。
- 囲炉裏端での炭火焼きで答志島の新鮮な海の幸をもっと楽しんでいただける場所をご用意しました。
- リズムカルに行われるセリ
- いつでもだれでも見学できます。セリの時間やお休みは事前にご確認ください。
鳥羽市の無形民俗文化財に指定された【寝屋子(ねやこ)制度】。 中学を卒業した男子が寝屋親と呼ばれる世話係の大人のもとで結婚するまで共同生活を送る制度です。 日常生活全てを寝屋子で過ごすのではなく、食事などは各自の家庭で済ませ、夕食後に寝屋子に集まり夜を過ごします。時代の流れで集まる回数は減っているものの、今でも10組程度の寝屋子が存在しています。
寝屋子では漁業を学んだり、神祭や史跡の保存などあらゆるシーンで大切な役目を任されたりします。
寝屋子はメンバーの誰かが結婚すると解散になるが、義兄弟ともいえる縁を交わし、生涯にわたる深い絆を築き上げています。 その共同体が生み出すパワーが今も答志島を支える原動力となっています。
答志島へのアクセス
鳥羽マリンターミナル市営定期船のりばから約25分・片道550円
鳥羽マリンターミナル市営定期船のりばは鳥羽駅改札口を出て左手へ進み、連絡橋を渡った後、右側へ階段を下りてください。階段を下りるとすぐ左に鳥羽一番街というビルがあります。階段を降りた進行方向に進み、ビルの角を左に曲がって下さい。直進で5分ほどのところです。
時間 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
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答志島行 | 00 | 00 | 50 | 20 | 20 | 45 | 55 | 45 |
※風速16.0メートル以上/港外波高1.5メートル以上/港内波高1.0メートル以上/視程500.0メートル以下の場合運休となりますので、あらかじめご了承ください。詳しい運行状況は鳥羽市ホームページにてご確認ください。
答志島への想い
当社・株式会社浜与本店は答志島周辺でとれる豊かな海の幸を商いの糧としています。魚が獲れなくなれば商いが出来なくなってしまうのです。
そこで、浜与本店はいつまでも答志島の豊かな自然と伝統文化が継承されるよう、食生活にとどまらない島の資源を再確認し、それを活かす“地産地消”を改めて見つめ直し『安心・安全で豊かな生活がおくれる島・答志島』を目指して、答志島の魅力の全国発信・豊かな漁場の維持・漁師文化の継承に力をそぞいていきます。
創業百数十年、伝統と信頼の味を全国の皆様に知っていただくのも答志島の魅力を伝えられる一つの手段だと考え、今後もより一層の努力を行ってまいります。
太陽の道と答志島
北緯34度32分、「太陽の道(レイライン)」と云われる不思議な緯線が存在します。東の端には太陽信仰の「ゲーター祭」の伝統を持つ「神島」、西の端には「御食国」の一国、淡路島の「伊勢の森・伊勢久留麻神社」。この二つを結ぶ東西一直線上に相当数の古代祭祀遺跡や古い由緒を持つ神社が存在しています。共通点は太陽神との関係で、「伊勢神宮」の「天照大御神」に使えた斎王の住まい「斎宮跡」もこの線上にあります。春分・秋分の日にはこのラインと日の出、日の入りの方角が重なり、各遺跡では祭祀者たちが太陽神を祭ったと云われています。
また「伊勢神宮」と「富士山」は夏至の日の出・冬至の日の入りのラインで結ばれており、これも古代に築かれた我が国の大きなミステリーとなっています。
答志島は、これら「二つの太陽の道」が交わる場所に位置し、地理的にも歴史的にも非常に重要な意味を持つ島ではないかと考えられています。
